読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

おっかあのブログ

そうか!作ればいいんだ!

執着からの解放

息子のもの〜
服とか雑貨とか携帯電話とか遺骨とか・・・

これらにいつまでも執着するのは、あまり良くないということは分かっているけれど、なかなか手放せなくて・・・

でも、子を亡くした親にとって執着心の解放が、実は一番必要なことなんだと最近の強く感じています。
だけど、一番難しいことでもあります。
もし、手放すことができてしまったら、自分は冷たい人間なんじゃないかとか、息子への様々な執着を手放すことは、イコール息子を忘れる・・・っていうことになってしまうんじゃないか〜って。
そんなことあるはずないことも分かっているんだけど、恐れという自我が邪魔をするっていうのかな?


執着って、この世ならではのものですよね。
そして苦しみのほとんどが、この執着によるもののような気がします。
その中でも、子を亡くした親の、子に対する執着は半端ないです。


それでも、おっかあの中では比較的早いうちから、息子の部屋は模様変えをして、家族みんなが使える憩いの部屋にしたり、
(楽器を全部息子の部屋に集めて、音楽室のような、楽器庫のような感じにしました♪)
息子の洋服で、着れるようなものがあったら、「ちょっと借りるね。」と言って、着たりもしてきました。
ただし、それはただ単に、息子の服を洗濯して干すという作業がしたいからなんですけどね。

息子のものをいつまでもそのままにしておくつもりはないんですが、とにかく誰にも渡したくない!誰も履くことができないパンツすら捨てられない!それに、納骨もしていません。(これについては、ちょっと色々あって・・そのうち書こうかと思っています。)


でも、最近おっかあの中で、少こお〜し変化が出てきたんです。
息子の持っている物を、どんどん消費していこう!
息子のものは、私のもの!と、抱え込んでいたことが、なんて無駄な?ことだったんだろう、と思えてきたんですね。
今まで、息子に関わるすべてに強く執着していました。それはなんて窮屈なことなんだろう〜
息子とおっかあを繋ぐのに、何もいらないんですから。
むしろその執着が邪魔をしているわけですから。


この間のブログで、封印していた醜い部分が表面に出てき始めたことを書きました。
それと、この世でこうして生きていることの実感がわかない〜ことも書いてきました。

ここへきて、こんな風に今まで見て見ぬ振りをしてきた面倒くさい部分が表に出てきたわけですが、これはこういった現象によるものなのでしょうか?
それが形として表に出てきたということなんでしょうか?
執着からの解放に向けて、おっかあの中で何かが動き始めたのかな?


でも無理をするつもりはありません。
その時々にふっと、あっ、これはもういいな〜と自然に思えた時に、ひとつずつ手放していくつもりです。

純粋な気持ちでそれらを手放せた時、きっとこんなことが起こるんだろうな〜

距離や時間なんか存在しなくて、息子と同じところにいる実感が訪れて、そしてきっと
「なあ〜んだ!こんなことだったんだ!」
「そうだよ、おっかあ。こんな単純なことだったんだよ。」って、息子と2人で笑い合うんだろうな〜

そして、誰も彼もゆるすことができて、
もうなんにもいらない!って思うんでしょうね。

こんな時が、おっかあにも訪れるだろうか?

そうなりたいなあ、と思っていることも執着なんですけどね・・・