おっかあのブログ

そうか!作ればいいんだ!

幸福の距離

今朝の天声人語にこんなことが書かれてありました。

福島市生まれの詩人、長田弘さんの詩集「詩の樹の下で」からの一節についての記事。

『〈あらゆるものには距離があるのだ。
あらゆるものは距離を生きているのだ。
そして、ありとあらゆるものとのあいだの距離を測りながら、にんげんはいつも考えるのだ。
幸福というのは何だろうと。〉
〈幸福を定義してきたものは、いつのときでも距離だった。〉
と詩は続き、様々な距離を挙げる。小さな花々との距離。川や丘、海との距離。生まれた土地との距離。亡き人との距離・・・

〜中略〜

時計の針は戻せない。だが復興とは、ありとあらゆるものとの距離を、人がよりよく取り戻していくことだと思いたい。きのうの追悼の祈り。そしてきょうからはまた、共に歩みながら。』

・・・という内容でした。


距離が広がれば広がるほど、寂しくて苦しくなる。


今のおっかあは、息子を失ってとても苦しくて、悲しくて、辛い。なのに幸せなんです。

その意味がなんだかわかったような気がします。

息子は、生きているかぎり絶対に手の届かない遥か遠いところに行ってしまった、という想いが苦しみを生み出し、
息子は、おっかあの中のいて、おっかあの中の息子とのやりとりは幸せな気持ちにさせる。

〜こういうことなんじゃないかな?
この二つの感覚が、苦しいけど幸せな気持ちにさせてる。
息子との距離があるかないかで、こんなにも真逆になるんですね。


息子は遠いところにいるといった感覚は、外部的なやりとりで、
おっかあの中にいるといった感覚は、内側の交流(コミュ二オン)。源(ソース)を通した絆っていうことなんだと。
これは、先日読んだ「降参のススメ」からです。
そして、おっかあの中にいる、というほうが真実。


天声人語の最後の文章の、復興とはありとあらゆるものとの距離を取り戻して行くこと・・・
ということは〜

復興するにはがれきの撤去が不可欠です。
そう!がれきとは、先日からおっかあが悶々としているところの、封印していた醜い部分のこと。
それをすっかり取り除いた時、一揆に距離が縮まるのかもしれません。